複素振幅

「地震が発生しました」 その日のことは何度もどこかに書いただろう。なにかを書いては消し、なにかを書いては消し、過去を拭い去るように生きてきたわたしのたまに思い出すのは、お昼ごろ玄関で靴ひもを結んでいるときにふと浮かんできた、外へ行くのを止め…

現実

いつか、朝、七時半にベルが鳴る。妨げられた眠りの左半分で美しい異物の熱を感じとる。やがてスーツを身にまとう衣擦れの音が意識を現実に引き戻すころ、彼は凛とした佇まいで私を見下ろし、それから光の方へ開け放たれた玄関をくぐり抜け行ってしまった、…

町をさまよう可愛い男の子たちがブレザーを脱ぎ、セーターを脱ぎ、やがて薄いYシャツ一枚になる季節、麻酔ガスのような、あるいはバーボン・ウイスキーのような甘い匂いのする季節、の、反対、空気はしんと冷えてきて、人肌も恋しくなってきたら、体温のな…

青写真

雨が好きだと言った。雨が好きそうだと言われた。太陽が苦手な振りをしているんだ。得意でないのは光そのものであって、実際、まともに目を開けて歩くこともできないから、夏の晴れた日にはサングラスをかけるわり、絶望的なほど青い空も、人の腕に白んで見…

十五、六のとき、二十かそこらで死ぬものだと疑わなかったはずなのに、気づけばその機会を見事に逃し早数年、なにかを失う機会を必要以上に得たのち、またそれの繰り返されるかもしれない未来をおそれながら、それでも無様に鼻血やよだれや反吐を垂れ流して…

夏だ、夏だ、と浮き足立っていたのもつかの間に、「冷夏らしいよ」「酷暑だって」「例年並みって聞いたけど」などと錯綜していた情報のどれが正しかったのか、路上で倒れそうになるほどではないけれど、とりあえず夏というものは(少なからず東京の夏という…