複素振幅

「地震が発生しました」

その日のことは何度もどこかに書いただろう。なにかを書いては消し、なにかを書いては消し、過去を拭い去るように生きてきたわたしのたまに思い出すのは、お昼ごろ玄関で靴ひもを結んでいるときにふと浮かんできた、外へ行くのを止めようかという、その迷い。予知などという大それたものではなくただの憂鬱に違いなかったけれど、ドアのガラス部分から透ける乳白色の光の中でしばらく呆然とした、あの余白。死にたかった。それでも近づく春を追いかけた。初めて顔を見る人たちで賑わうスクランブル交差点を過ぎた。青空を見ないように井の頭通りを歩いた。夢心地で神南一丁目の横断歩道を渡ろうとした。そこが上手く渡れなかった。腐敗したシナプスとも見える電線が揺れた。電柱が揺れた。知っているだろう。比喩ではなく本当に地面がぐらりと揺れたのだ。つまりわたしは倒れ込んでいるような気持ちでありながら間違いなくこのひん曲がった二本の脚で立っていたのだった。その夜、ラース・フォン・トリアー『アンチ・クライスト』を上映していた雑居ビルと併設の映画館は、数年後、やはり消されることになる。

想像上の世界の終焉に似ていた。まだ陽が落ちたばかりだったというのに人の姿も車の気配もなく、煌々と闇を照らすコンビニエンスストアの灯りばかりが妙に不気味と見えたのだ。そのときにはまだ水に呑まれた町のことを知らずとも命のことは知っていた。テレビを点けるたび増えていく数字の意味はこの頭でも理解はできた。ただわたしにはそれら一つひとつの悲しみを真摯に受け止めることができなかった。と、過去形にして固形の時間を美化する気などはまったくなく、今でもわたしは身を縮ませながら耳を塞いで目を閉じる。例えばすれ違う人たちに舌を打つなど私の軽蔑に値する人たちには簡単にできるらしいことがわたしにはどうしてもできないのだった。彼らは満員電車でバッグを当てられただけで「死ね」と呟くわり、どこか遠いところで失われる多くの命のことを心から嘆いたり祈ったりすることができるらしい。それを愚かだ、普通だ、云々と、そんな風に定義する気などもまったくなく、満員電車でバッグを当てられただけでは「死ね」なんて思いもしないわり、どこか遠いところで失われる多くの命のことを心から嘆いたり祈ったりすることもできないわたしの冷徹のみを定義させてもらうならば、おそらく欠乏。嘆かず、祈らず、人を救いたいとだけ本気で思う無能。

有能な人だって悩んだだろう。ミュージシャンも困惑した。特に若者はどうしていいかがわからなかった。老人はやはり強かった。国、かはわからない、少なくともわたしの日常生活の枠内に組み込まれている町や街がまだそれこそ水のような静寂に包まれていたとき、とあるロッカーはすぐさまわたしが帰宅難民となった渋谷へと繰り出し、メガホン片手に募金を呼びかけながら「Power To The People」を熱唱したという、その事実を私は恥ずかしながら本当に最近、ほとんど空っぽの胃に安いビールを流し込んでいるとき知ったのだ。人は言った。「希望を広める」のだと。いつの間にかわたしはそういう類の世界に左足の小指の爪の割れた部分の先端辺りを突っ込んでいるらしい。「気持ちいいじゃん」。違う。首を振る。長くはここにはいられない。どこにいたらいいのだろう。求めないで。笑わないで。お金はいらない。夜道を自転車で走り、決して気持ちよくはない酔いが冷めたころに少しだけ泣いて、

「希望になりたいんだ」と喚いたら、

「あなたは僕の希望ではあるんだけどね」

恥ずかしさからか、本当に冗談だったのか、茶化すような言い草でもわたしを感動させるには十分すぎるほど"希望的"な言葉を投げかけてくれた人の危うく澄み渡る目を直に見たのは、五月初旬以来、おおよそ一か月ぶりのことだった。早くも夏めいてきた朝日の中、それなりに発展しながらも落ち着きのある地方の街を一緒に歩き、積み木や塗り絵をして遊び、天使を探すことだけは断念して、わたしにとっては25回目となる夏の駆け出しとして深緑色のアイスを食べる前、「まだあなたの泣いてるところは見たことないな」と隣で笑った君の「わたしだって見たことない」けれど、日本酒による気持ちのいい酔いのせいにしながらも様々な告白をしてくれたその心の悲しみには少し、指先だけでも、確かにそっと、触れられたような気がしたのだった。おそらく極端なまでにずる賢いわたしたちがベールを解いていく私たちの過去に存在したわたしたちの本心などから導かれる人生においての度重なる偶然を、「運命」などと咀嚼して、君やわたしがいままで散々誰かに傷つけられたり誰かを傷つけてきたことを残酷だけれど誇りに思う。その傷のひとつでもなかったならたぶん、まったく違う「運命」にあっただろう。笑っちゃうほどの利己主義、さらには歪んだ寵愛主義を高らかに掲げて、君を傷つけた人のことは許せずに、けれども君が傷つけた人のことなどどうでもいいと思うだ。それらがあって、今、わたしたちは、ここにいる。かくしてわたしたちの間違いが、少しずつではあれど、確かに間違いではなくなっていく。虚を捨てよ。なにより君は美しい。

「自信を持ちなさい。僕に好かれているんだから」

見て見ぬふりをしたものの、鼻につくほど甘ったるい傲慢の裏で震えていたそのしなやかな左手だって美しく、君の希望であり得るならばそれでいいと、本気でそんなことを、一瞬、考え、ただその一瞬が、異様に長いのかもしれない。誰のことも救えなかったわたしのことを嘘でも「希望」と名づけるくらいだから君は本当に美しい。とても悪くて美しい。わたしはわたしたちの探せなかった天使のふりをしていたい。下界を無様にさまよって、揺れ動く地面の上で倒れこむあなたたちに、希望、それそのものの存在を信じさせることさえできたらと思って、そう思えば思うほど怖くなるのは、高く飛びすぎると、落ちたときに痛いから。骨折り損になってしまう。そんな調子で目に見えない脅威に怯えつつ、いい大人になっても未だ空虚をさまよっていると、今度は少し遠くの地より届けられる、

「地震が発生しました」

そこには信頼する人がいた。もちろん嘆きはしなかった。嘆かずに済んだのだ。そして心から祈った。そうだ。人間が嫌いだ。ほとんど憎んですらいるかもしれない。ただ、例えばときに誰かのことを、汚い、と思う、その心の部分から少しずつ汚れていきながらも何度だってめげずに擦って洗ってめくれ上がる皮膚の下に黄土色の膿を溜め続けるわたしのために、生きてほしい、否、生きるべき人たちがいて、もちろん君に限っては、不死でなければ許さない。永遠の。