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現実

いつか、朝、七時半にベルが鳴る。妨げられた眠りの左半分で美しい異物の熱を感じとる。やがてスーツを身にまとう衣擦れの音が意識を現実に引き戻すころ、彼は凛とした佇まいで私を見下ろし、それから光の方へ開け放たれた玄関をくぐり抜け行ってしまった、次の瞬間、とは私にそう感じられただけなのだったが、正午も過ぎたころサンドイッチを持って数十分だけ戻ってきたその細い体に監禁されている命の尊さを欲しく思う、欲、信仰、憂い、そればかりで特に記すべきことすら見当たらなくなっている私の新しい手帳に書き込まれることになるだろう時間軸の鋭さに目を眩ませて、二年前の今ごろは君の存在すら知らず、どうやら帰国を目前にして自分の笑い声で目覚め、一年前の今ごろは君の名前すら知らず、どうやら初めてクラブというものに足を運び、そして今年の近ごろは君のことを考えながら、どうやらどうにかある程度まっとうに生きることを考え始めているなんてことをどうしてかつての私に笑われずにいられるというのだろう。

既に死んでいるはずだった。冬も近づくにつれ、同い年の人たちは私を置いて一足先に歳をとっていく。死ぬには遅く、生きるにも未だ、あるいは更に、辛く、熱せられた悲しみは背後に溜まっていく水のような人生に薄まり、温くなる。新宿から夜行バスに乗って向かった列島の北、寂れた繁華街のビジネスホテルで君の呟く、「長生きには興味ない、四十ぐらいで」、だから「私は三十かな」と答えてすぐ、それが決して遠い未来ではないことに気づいて思わず笑う。「じゃああまり一緒にいられないね」「そうね、四十まで頑張ろうかな」「うん」。長引く風邪を治そうとメンヘラみたいな量の薬をもらって安心を得る私は、早朝からスーツを着ようが着まいが、どちらにせよ自分の足で立って生きている美しい人の隣で、長いこと息をし続けたいような気すらして、けれどもそのとき車を運転していた君が山道のカーブに差し掛かってもハンドルを切らず、干からびた木々の待つ谷底へ落ちていたとしても、それはそれで、いま、地獄を並んで歩けていたと思えば。

「ダブル・プラトニック・スゥイサイド」

と、ある小説の台詞を口にしたくなるようなこういう思いが、どこか遠い異国の地ではその意に反して、何百、何千、爆破され、撃たれ、裂かれている事実は確かに耐え難いと感じ、少なくとも爆弾を仕掛けたり、銃を乱射したり、刃物を振りかざしたりしない分だけまともだと胸を張れる私たちの多くは、隣人を罵倒する口で追悼の意を表し、隣人に泥くらいは投げたことのあるだろう両手を組み合わせ、隣人を蔑む目で真剣に希望を探し、今日も明日も平和を祈ってみたりする、馬鹿みたいに、自分の傷つけたものを忘れ、深く傷ついたような振りをする。もう傷つくことはないだろう、なんてよく言ったものだ。この先また誰かを傷つけるくらいなら喜んで傷ついてみせたいよ。

どうして罰がない?